Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

記憶の楔

27

 ライラとバートレットのふたりは一度部屋に戻ることにした。
 この屋敷ときたら、部屋から出ただけであれこれと些細な問題が起こる。せめて夕食の時間までは、平穏に過ごしたかった。
 無人の部屋は秋の夕暮れを迎えてひんやりとしていたが、まだ暖炉は静かだ。夜になったら誰かが火をつけに来るだろう。

 バートレットは勝手知った様子で衣装棚を開け、膝下丈の部屋着を取り出すと、ライラがそれを羽織るのを手伝った。
 他人の目がないときくらい気を緩めればいいのに、彼はここでも良き夫の仮面を被り続けるのだ。相変わらず真面目だな、とライラは思う。
 彼らはなんとなく並んで窓際に佇み、夕空を眺めながら、ニナとの会話について話し合った。

「俺も愛想の良いほうではないから、あの子の視点が少し理解できる気がする」
 ひととおり事情を聞いたバートレットは、そんな風に切り出した。
「以前は俺だって、他人に友好的な態度をとることの意味がわからなかったんだ。必要な相手と必要なやりとりができれば事足りるはずで、それ以外は余計で煩わしいだけの無意味な行為だと」
「今は違うの?」

 ライラは隣に立つ彼の顔を見上げた。
 バートレットは苦笑して小さく頷いた。
「正直言うと、その思いはまだ多少ある。けれどお前と一緒にいて、考えが大分変わった」

 ライラは驚いた。自分がバートレットに何らかの影響を与えていたなんて、思いもよらなかった。
 夕日に照らされた彼の顔には清々しさがある。

「他人にへつらう生きかたは息が詰まると、そう思い込んでいた。でも排他的すぎるのも違う。頑なな態度を貫くのだって疲れるんだが、お前の隣で身につけるまで、俺もやりかたを知らなかったんだ。今は、肩の力が抜けて楽になったよ。思っていたほど煩わしさもなかった」
 それを聞いて、ライラは口もとに笑みを載せた。

「たしかに最近のバートレットは、性格が柔らかくなったね」
「こんな話ができている時点で、そうなんだろうよ。自分でも驚きだ」
 バートレットは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「思えばあの頃は、人に弱みを見せまいと必死だった。それしか知らないのだからそうするしかない」

 彼は孤児だった経験から、もともとニナには同調できる部分があるようだった。
 親といっても千差万別で、すべての子が充分な庇護を受けられるわけでもないが、それでも親がいるのといないのとでは大きな差がある。
 自分の身を守るだけでなく、生きるために食わせていかねばならない。その方法を教えてくれる大人はいない。
 幼児の年から街の片隅で生きていくのは、並大抵のことではないだろう。

「でもそうやって、疲れる生きかたをしている目の前に、楽をして生きてそうな人間が出てきたら? 気持ちに余裕がない分、単なる羨望だけに留まらないこともある」

 バートレットの言葉に、ライラはハッとした。

「媚びてるって、もしかしてそういうこと? てっきり、その……性的な分野の話かと」
 後半は羞恥心から声音が小さくなる。
 真っ赤になってしまった妹分に、バートレットは苦笑を向ける。
「言ってる側も混同してるかもな。感情的になって、八つ当たりしてるだけなんだから」

 社交性と性的な魅力は、どちらも人を惹きつける。両方を持たない者からすると、区別はついていないかもしれなかった。
 真っ当な人間関係であれば、持ちつ持たれつという場面も当然発生する。維持するために努力が必要なこともある。
 しかし第三者が表面の一部分だけ切り取れば、大した労力もなく、利益だけ享受しているように見える可能性はあった。
 ライラは思わず「うーん」と唸ってしまった。

「余裕か。今もそんなにあるわけではないけど、あの子の年のときは、たしかにもっと余裕はなかったな」
 バートレットもライラのその言葉に共感したようで、記憶の彼方でも見つめるように、視線を茜色の空のほうに向けた。
「なかなか一人前として相手にしてもらえない。自分は周囲が思うよりずっとましな人間で、それどころか特別な気すらするのに、誰かがそういう扱いをしてくれることもない。消化されない苛々が、身体の内側で大暴れして……

 ライラも苦笑いを誘われて、そのあとを引き受けた。
「賢いつもりが、自制すらままならない自分にも気づいてないっていう、矛盾を抱えてるんだ。それこそが幼さの証明なのに。子ども時代は、誰だってそういう経験をするのかも」

 そろそろ耐えきれなくなってきたのか、バートレットは苦虫を噛み潰したような顔になった。
……。地獄の蓋を開けるような話だな」
「数年ぶりに地獄のほうから様子伺いに来たわけだね、少女の姿をして」
 ライラは思わず笑い声を立てる。その声につられるように、バートレットも笑った。
 それから彼は、ふと気づいたように言った。

「はたして、あの子にそれが理解できるだろうか。また突っかかってくる気がする」
「今すぐ理解しろとは思わないよ。彼女は子どもだ、実年齢的にも。今後どういう行動に出るか、だね」
 ライラは気軽にそう(こた)えた。
 実際、彼女はニナに対してそこまで悪感情を抱いていなかった。ライラもまた、少女と過去の自分が重なるものを感じていた。

「私に対してあんな態度なのは、日頃の鬱憤に加えて、ルースに相手にしてもらえなかったからというのもあるんだろう。あのまま文句を連ねながら生きるのか、ルースの視界に入るよう試行錯誤するか」
「頭領はお前の男だろうに」
 バートレットが呆れ返って言うと、ライラは肩を竦めた。
「あの子はおそらく、自分の脳内で錬成した、無味無臭で都合の良いルースにのぼせているだけだからね。今のまま等身大の彼を知ったら、嫌でも夢から覚めるさ。ルースだって、そんな理想を押し付けられても困るだろうし」

 等身大のルシアスこそ己の目標と掲げてきたバートレットは、納得のいっていない様子で嘆息した。
「もし、あの子が実際の頭領を知ったうえで、気を引く努力をしたらどうするんだ?」
「さあ? そのときになってみないと」

 ライラは微笑んでいるようにすら見える、穏やかな表情で遠くを見つめた。
 バートレットは、ライラの言い分が他人事のように聞こえるのが気になった。
 黙ってしまった彼の様子から、それを感じ取ったライラは再び口を開いた。

「ルースは恋人ではあるけど、他人だ。他人って言いかたは冷たい響きがするけれど、彼の意思は彼のものだ。私にどうこうできる領域のものじゃない」
「頭領が、いつかあの子どもに(なび)くとでも?」
「わからないよ。あの子に限らずだ。絶対と呼べるものはこの世にそんなに多くない」

 本人は気づいてないかもしれないが、ライラは時折こういう突き放した物の見かたをする。ただそれは、執着を恐れているようにも見え、バートレットは諦めたように軽く首を振った。

「お前のその考えを聞いたら、頭領はどう思うんだろう。喜びはしない気がする」
 すると、ライラは振り向いて彼をじっと見つめた。
「そういう場合での絶対という言葉は、自分自身が安心するために使いがちだ。相手を縛る言葉だ。私達は絶対ではないけど、可能な限りお互いの意志で相手を選んでいたい」
 そこまで言って、ライラはくすりと笑みを零した。
「理屈っぽいかな。でも、ルースならきっと理解してくれる気がする」

 バートレットはそんな彼女にやや目を細めた。
 眩しいものでも見るように、あるいは、痛みでも堪えるように。

……おそらくそうだろうよ。そういう面でお前と頭領はものすごく似通っている。ただ、それをわかっていてあの子どもを煽るのか? あの子に勝機なんてほとんどないじゃないか。意地の悪いことをする」
 バートレットは、少しだけ咎めるような目で彼女を見た。ライラはいたずらが見つかった子どものような顔をし、それから言った。
「だから、絶対なんてないと言ったろう。駄目もとでやってみればいいんだ。勝てそうにないから、傷つくのが怖いからと、最初から挑まないのも別にいい。結果がそれに伴うだけだよ」

 この発想自体が強者のものなのだと、あの少女なら憤慨しそうな話だった。
 しかしバートレットは、その意見を胸の内に封じた。
 ライラとてまだ若いが、この年齢でそういう思考が身についてしまうような人生を、これまで送ってきたのだろうから。
 そして、そういったことを経て今平然と隣に佇む彼女に、彼は強い吸引力を感じるのだ。抗いようがないほどの、強烈な力を。

「あの子が初めて不憫になってきたな。相手が悪すぎる」
 嘆息したバートレットに、ライラはまた小さく笑ってみせた。
「そうかな? 挑戦も不戦敗も、選ぶのは自分なんだから、その選択に責任を持っていれば不満なんか出ないはずなんだ。本来はね」
「責任なんて、大人でも持っている奴はそんなにいないだろ」

 大体が見て見ぬふりで無関係を装うか、土壇場で尻を捲って逃げ出すか。
 バートレットが投げやりにそう言えば、ライラも否定はせず澄ました顔で言った。
「不戦敗ばかり選んでいけばそうなるだろうね。戦う力がつかないばかりか、逃げ癖がつくし。でもそんなの知ったことじゃない」

 おや、と思ってバートレットは彼女を見た。
 ライラがさっきのように突き放す言いかたをするときは、同時に相手にも一定の配慮をしているのが常だった。
 が、今回は珍しくそれが感じられなかった。

「クラウン=ルースがそう簡単に奪えるだなんて、思わないでもらいたいな」
 ライラはふん、と鼻を鳴らして言った。
 バートレットは目を丸くした。
 それから彼は小さく吹き出して、笑いを噛み殺しながら同意した。「ごもっとも」と。


『早く戻りましょう、陽が落ちてきたわ』
 タチアナの店を出て、辺りの暗さに驚きながらエルセは空を見上げた。
 夕暮れの空はまだ明るさを残していたが、狭い小路は建物の陰によって暗く沈んでいた。

『足もとにお気をつけください、エルセ様』
 先を行くピーテルが、やはり一度店に戻って火を貰ってこようかと振り向いたときだった。
 いつの間にか、エルセの傍らに小柄の男が現れていた。

『そこを行くお嬢さん』
 薄闇から今生み出されたのかと思うほど、一瞬のことだった。
 驚いたエルセが何も言えずにいると、男の顔は暗さでよく見えなかったが、ニヤついているのがわかる声で言った。

『随分といいお召し物を身につけておいでだ。哀れな男に、ちょっとだけお恵みをくださいませんかねぇ』
『何だお前は!』
 ピーテルの声にエルセもハッと我に返ったが、男が彼女の手を掴むほうが早かった。

『は、離してください!』
 エルセが腕を引いて抵抗しようとするのを無視して、男はさらに言った。
『儂はこのとおりの不具でね。働けるものなら働きたいが、そうもいかない。優しいお嬢さん、あんたが助けてくれるなら、少なくとも今日はいい日になるんだが』

 言葉のうえでは殊勝なことを言いながらも、態度がそれを裏切っていた。
 男の指は節ばっていて、やや不自然な曲がり方をしている。細かい動作ができないのだろうと思われたが、今は逆に、加減の効かない力でエルセの細い手首を拘束していた。
 男がずいっと詰め寄ると、半狂乱になった彼女は『ひっ』と息を呑んだ。

『いやっ、離して!』
『お嬢様を離せ、慮外者め!』
 ピーテルが二人の間に割り入って、強引にその手を解かせる。
 が、それだけで事は済まなかった。

『おっと、ごめんよ!』
『きゃあっ』

 新たな声と短い悲鳴にピーテルが再度振り向くと、今度は別の男が、エルセの背後から羽飾りの帽子を奪い取ったところだった。
『エルセ様!』

 陽動にしてやられたことに気づいたピーテルが青褪める。
 しかし、幸いにもエルセにそれ以上の危害は加えられらず、男はそのまま走り去ろうとした。普段からこういった物盗りをしているのか、貧相な身体つきからは想像できないほどの素早さだった。

 しかし、逃亡はあえなく阻止されてしまった。
 行く手にまた別の人物が立ちはだかったのである。
 その人物は男の手を難なく掴むと、あっという間に捻りあげた。
 薄暗がりでもその相手が誰かわかったピーテルは、安堵に表情を緩めた。

『ディレイニー殿!』
「そいつを置いていきな。あんたにゃ似合わねぇよ」
 ギルバート・ディレイニーは、世間話でもするような口調で男に言う。
 しかしそんな彼の風貌は、むしろ治安の悪いこの界隈にもよく馴染むものだった。だからだろうか、捕まった男は帽子をとられまいと、掴まれていないほうの手で抱え込んだ。
 それを見てギルバートは察した。

「公用語がわからんか。でもこいつの意味は、わかるよな?」
 彼が短剣を突きつけると、男は『ひえっ』と声をあげて帽子を放りだした。
 ただ手放すのではなく、汚い物でも放るようなその仕草が、ギルバートの癇に障った。
 彼は小さく舌打ちをして、捕らえた男を乱暴に突き飛ばした。男は帽子よりも派手に転がった。
 干からびた蛙のような格好で地面に伸びた男を、ギルバートは冷たい目で見下ろした。

失せな(ロトプ)クソ野郎(クローツァク)
 今度ははっきり恫喝とわかる声だった。
 男は怯えた顔をしながら慌てて立ち上がると、一目散に走り去った。もうひとりの男も、取り残されるのを恐れてか、ピーテルを突き飛ばすようにして逃げ出す。

 ギルバートは、二人の小悪党を無理に追うことはしなかった。短剣をしまうと、悠然とした動きでエルセの帽子を拾いあげた。
 手で軽く汚れを払うが、乱暴に扱われたせいで、優美な羽飾りは途中から折れてしまっている。
 汚れが落ちたとしても、この部分は交換しないと使い物にならないだろう。

「ディレイニー様……どうして」
 ぼんやりした様子でエルセが呟く。少し鼻にかかって震えるその声に、ギルバートは振り向いた。
 ギルバートは再び無惨な帽子に視線を落としてから、彼女に歩み寄ってそれを手渡した。
「そりゃこっちの台詞だよ、お嬢さん(ユフラウ)。なんでこんなところに来た?」
……

 責めるような口調ではなかったが、エルセは反射的に俯いた。
 が、それを見たギルバートのほうもまた、気まずげに彼女から目を逸らす。カルロに言われたことが彼を縛っていた。
 どこかの酒場の扉が開く音がして、彼らは夕暮れであることを思い出した。

「もうじき夜になる。早く屋敷に帰るんだ」
 ギルバートが手振りで促すと、ピーテルが頷いて馬車を呼びに走った。
 路地に残されたふたりの間に、居心地の良くない沈黙が漂う。
 辺りは先ほどよりもさらに暗くなっていて、お互いの顔がほとんど見えないのも要因のひとつだった。

 突然、遠くから犬の吠え声が響いた。
 驚いたエルセが身じろぎをしたのがきっかけで、張り詰めていた空気がやや緩む。
 ギルバートは黙って彼女に近づくと、庇うように立った。
「あれは野犬の鳴きかたじゃない。番犬が吠えてるだけだ」
 口ではそう言いつつ、それでも傍に来たのは、怯えるエルセを少しでも安心させるためだろう。
 それが伝わるから、エルセは堪らなくなってしまう。

 こんなことをされてはつい勘違いしそうになるが、ギルバートに他意はないのだ。普段から頼りがいのある彼にとって、誰かを庇うのは当たり前のこと。
 意識せずこういうことができるのは、大人だから。余裕があるからだ。
 さっき助けてくれたときだって、彼は随分慣れた様子で動じていなかった。そして、あっという間に悪漢を追い払ってしまった。

 エルセは嬉しさと悔しさで苛まれていた。彼は必死になって助けに来てくれたわけでもないのだ。
 彼にとってエルセは、立ち寄った港で知り合っただけの子どもでしかない。
 エルセは唇を噛んだ。
 無言のエルセに何を思ったのか、ギルバートが口を開いた。

「まだ怖いか、お嬢さん(ユフラウ)?」
……。怖くは、ないです……
 エルセが小さな声で答えると、ギルバートはそれが意外だったようだ。
 しかし小さく嘆息して、聞き分けのない子に対するように彼は言った。

「何の用事があったか知らないが、これに懲りたら、次からお転婆は程々にしておくことだな。ここはああいうことが日常的に起こる場所なんだ。従者ひとり連れただけじゃ、心許なさすぎる」
……
 エルセは何も言えずに視線を落とした。

 ここに来たのはギルバートのためだったとか、彼が傍にいてくれるだけで本当に恐怖を感じなくなるのだとか、たくさんの言葉が一気に押し寄せてきて、喉の奥で詰まっていた。
 そもそもエルセは、往来でそんなことを喚き立てられるようには育てられてこなかったのだ。
 息苦しくて堪らないのに、何も言えなかった。

 再び、痛いほどの沈黙が両者の間に漂う。
 何か言わなくちゃ、とエルセは己を鼓舞した。
 ギルバートと話すのを、あんなに待ち望んでいたではないか。しかも今は屋敷の外でふたりきり、こんな絶好の機会はまたとないはずだ。

「あ、あのっ」
 なけなしの勇気を掻き集めて、ようやくエルセがあげた声と、戻ってきたピーテルの呼び声が重なった。
『良かったです、丁度馬車が戻ってきたところでした!』

……思ったより早かった」
 地元の言葉がわからないなりに、状況から察したギルバートが言った。
「馬車まで送ろう」
「あなたは?」

 エルセに見つめられ、ギルバートは一瞬返答に詰まった。
 もう彼が彼女を警護する必要はなくなっていたが、さすがのギルバートも違う意味だと理解したらしい。
……。俺も追って屋敷に行く」
 彼がぶっきらぼうにそう告げると、エルセは心底ホッとして「お待ちしています」と言った。